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「・・・・何の用ですか、主上」
その日出仕してからというもの、一日中背後に纏わり付く意味ありげな視線に辟易した静蘭は、振り返るとその視線の主に語りかけた。
見れば劉輝は物陰から半分ほど顔を覗かせて、何処か物欲しげな表情をしている。
「しゅ・じょ・う?」
静蘭に輝くような(黒い)笑みを向けられ、劉輝は視線を彷徨わせながらもおずおずと切り出した。
「そのぅ・・・・静蘭、今夜一晩余につきあってくれぬか・・・・?」
瞬間、ゴン!!という鈍い音が辺りに響いた。
劉輝が驚いて顔を上げると、額を近くの壁に打ち付けている静蘭の姿があった。
劉輝は慌てた。
あの兄上が壁に額を打ち付けるなんて一大事だ!
何かまずい事でも言ってしまったのだろうか!?
「せ・・・・静蘭!?大丈夫か!!?」
「〜〜〜〜〜っ」
劉輝の意図を図りかねて、静蘭は激しく狼狽していた。
・・・・一晩付き合え、だと?
兄だと知って尚、この期に及んで――――?
いや、冷静になれ。
自分の早とちりかもしれない。
以前にも未遂に終わったとはいえ、夜伽を命じられた経験から、静蘭の思考は四方八方へと奔走して行く。
「・・・・やっぱり、駄目か?」
追い討ちをかけるように、劉輝が額を押さえる静蘭の顔を下から覗き込んできた。
捨てられた子犬のような目にうっと静蘭は息を詰まらせる。
「いえ、駄目というか、その・・・・」
「今夜は満月だから、静蘭と酒を飲み交わしながら月見をしたいのだ。酒もつまみも余が用意する。・・・・それでも駄目か?」
・・・・静蘭は全身から力が抜けるのを感じた。
その晩の月は確かに美しかった。
酌を傾け酒を注げば、杯の中にぽっかりと満月が浮かぶ。
それを一気に仰いで酒が喉を焼いてゆく感覚に、静蘭は目を細めて偶にはこういう夜もいいと思った。
「どうかしましたか、主上」
劉輝は先ほどから静蘭を見てにこにこと笑み崩れたまま、酒がちっとも進んでいなかった。
問えば更に笑みを深くして笑う。
「大切な者とこうして眺める月は格別だろうといつも思っていたのだ。静蘭と一緒に月を眺めることができて、余は幸せだ。それに・・・・」
「それに?」
「月も綺麗だが、静蘭も綺麗なのだ!」
顔を輝かせて言う劉輝の姿に静蘭はクスリと笑った。
幼い頃の劉輝には、『兄上は綺麗です!』とよく言われたものだ。
「ありがとうございます」
昼間のやり取りもこともあって、今度は深読みせずに素直な賛辞として受け入れることができた。
ところが、劉輝はその静蘭の反応を不満そうに眺めると、ちびちびと酒を飲み始めた。
・・・・やさぐれている、という表現がぴったり合いそうな様子である。
「むぅ・・・・静蘭は手強いのだ・・・・」
「・・・・は?何ですか、いきなり」
静蘭は目を瞬かせたが、劉輝が何も言わずに杯を仰ぎ始めたので、自分も静かに酌を傾けることにした。
再びゆったりとした時間が流れ始める。
コポコポと注がれる酒の音だけが響く中、劉輝がポツリと呟いた。
「昔は・・・・月によく心慰められたことを思い出しました」
静蘭は酒を注ぐ手を止めた。
「一人の夜は本当に怖くて、でも月明かりに誘われて空を見上げれば同じように一人ぽっちの月がそこにいて」
月の無い夜は暗闇の中で怯えながら、ただひたすら夜明けが来るのを待っていたけれど。
月が見える晩は月光が少しだけ恐怖を取り除いてくれた。
似たもの同士だと、そう思っていたからかもしれない。
けれどそんな事よりも一番に思っていたのは、自分と同じように何処かで兄上がこうして月を眺めているかもしれないということだった。
そして必ず自分を迎えに来てくれるはずだと――――・・・・。
「劉輝・・・・」
静蘭は優しく劉輝を抱きしめた。
幼い頃よくそうしていたように。
「おまえの元に辿り着くのにとても時間がかかってしまったね。すまなかった」
ずっと後悔していた。
王宮という名の魔の巣窟に、幼い弟をたった一人で残してしまったことを。
けれど劉輝と出会えたからこそ地獄の中でも生にしがみつく事ができたのも事実だった。
苦渋の末にこうして辿り着けた事。
それが何よりも嬉しかった。
静蘭は月を見上げた。
あの頃の自分にとっては月の光ですら冷たく残酷なものに思えたけれど、劉輝の話を聞いた後では不思議と暖かく優しいものだったようにも思えた。
「何やら感慨深くなってしまったよ」
そう言って淡く微笑む静蘭の姿に、腕の中に抱きしめられながらも劉輝は思わず見惚れてしまった。
不思議な光沢を持つ紫銀の髪が月光に反射して煌めき、闇を吸い込んで深みを増した翡翠の瞳が月を映し出して宝石のように輝いていた。
その様子に反射的に劉輝が動くと、刹那、静蘭の視界は反転した。
「・・・・主上・・・・何のつもりですか・・・・?」
静蘭の低い声に劉輝はハッとした。
静蘭にしがみ付いたまま押し倒してしまったのだ。
「しまった!静蘭があんまりにも綺麗だったから、ついやってしまったのだ・・・・!」
「つい、じゃないでしょう!さっさと退いて下さい!!」
「い、いや・・・・でも、その・・・・このまま一緒に寝ては、駄目か?」
「だ・め・で・す」
静蘭は頭痛がした。
何で今までいい話の流れで来て、ここでこうなるのだ。
いくら劉輝に上目遣いに潤んだ瞳で見つめられても流されはすまい。
それでも劉輝は静蘭にしがみ付いたまま離れずに、粘り続けた。
「でも、一人で寝るのはやっぱり寂しいのだ!!」
「何言ってるんですか。だったら、寝るまで傍に居て差し上げますから、とにかく退いて下さい」
「・・・・」
劉輝は不満そうにぶーたれたが、それでも静蘭が傍に居てくれるというので、渋々体を離した。
「・・・・ちゃんと余が寝るまで傍にいるんだな?」
「もちろんです。・・・・今度は何処にも行ったりしませんよ」
最後にこっそり付け加えられた一言に、劉輝は一瞬言葉を詰まらせると、小さく笑ってただ頷いた。
この幸せな一時を静かに見守っていて欲しい。
見上げる夜空の月に今願うのは、たったそれだけのこと。
はい、今回は紫兄弟です。
劉輝の初恋は清苑公子だ!
・・・・と、ここで主張しておきます。(笑)
夢鳥
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