☆虹の園☆

女体化絳攸ルート

思い出すのはあの人の怯えたような眼差しだった。
薄幸で誰にも顧みられることのなかった彼女の短い人生の中で。

自分が知っているのは、ただ、その表情だけ。

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「静蘭を絳攸に嫁がせる?」
敬愛して敬愛してそれでも足りないくらい敬愛する自分の兄が珍しく自分を訪ねてきたと思ったら、開口一番出てきた台詞に黎深は盛大に眉根を寄せた。
無論その表情は“冗談じゃない”という彼の心情をありありと語ったものである。
「正気ですか、兄上。紫家の女というだけでも厄介なのに、後宮に入れるなり、藍家にくれてやるなり、煮るなり焼くなり適当に処理してしまえばいいでしょう」
「君ね・・・・その台詞を百合姫相手でも言えるかい?」
問われて急に押し黙った弟を横目で一瞥し、潔ツは静かに息を吐いた。
「静蘭は私にとって家族も同然なんだよ。それを今更どこの骨とも分からない輩に預けるつもりはさらさら無いし、何より後宮の闇から逃れてきたのを再びそこに戻してやりたくはないんだ」
瞬時に反駁しようとした黎深を抑えて潔ツは穏やかに、しかし強固とした意思を込めて言った。
「これは劉輝様も既に了承したことなんだよ。絳攸殿なら私も安心だし、何より彼の傍には百合姫がいるからね。きっと静蘭の力になってくれるだろう」
彼女もお腹の子も幸せになれる。
そう、潔ツは信じていた。


貴陽の紅家邸に迎え入れられた静蘭は、宛がわれた室の寝台に腰掛けて呆然と座っていた。
薄闇の中で、硬く目を瞑る。
瞼の裏には、泣きそうな顔で「幸せにね」と微笑んでいた少女の姿が蘇った。
二度と会えないわけではない。
けれど、ずっと当たり前のように一つ屋根の下で暮らしてきた家族と分かれるのは、とても、寂しい。
婚儀は静蘭が清苑だと知る、ごく少数でひっそりと執り行われた。
そこには劉輝の姿もあった。
さすがに「結婚するなんて劉輝は嫌なのだ〜!!」などと駄々を捏ねることはなかったが、それでも幼い頃を彷彿とさせるような泣き顔に思わず微笑みを浮かべずにはいられなかった。
けれど、兄、姉、と言い澱んで最終的に静蘭と続けた劉輝に、女になったからといって何一つ変わっていないことを思い知らされたのだ。

――――いざという時には女であっても玉座に就ける。

その事実は静蘭を打ちのめした。
女になっても自分はやはり劉輝の治世にとって不安分子のままであり、ましてや兄弟なのだと公表できるはずも無く。
劉輝が静蘭のことを兄とも姉とも呼ぶことができないのは変わらないことだった。
静蘭の脳裏を過ぎったのは太陽のような男。
何一つ敵う事が無いと知りながらも、いつだって腹立だしくて仕方がなかったのに。
心が揺らいだばかりに、劉輝を盾となって守っていく未来も、秀麗と共に国を支えていくというあの約束も、全て、失ってしまった。
今の静蘭には歩むべき道が、どうしても見えなかった。

「もう起き上がっても大丈夫?」
不意に光が差して静蘭が顔を上げれば、光を遮っていた布が開かれ、いつの間にか美しい女性が静蘭の目の前に佇んでいた。
劉輝と――――亡き父によく似た、少し癖のある髪。
「あ・・・・叔母様」
逡巡したのち彼女のことをそう呼べば、彼女――――百合姫はにっこりと微笑んで静蘭の頬を軽く突付いた。
「今はもうお義母様、でしょう?」
「う、はい・・・・お義母様」
どうやら彼女はつわりがひどくてずっと寝込んでいた静蘭を気にして、様子を見に来てくれたらしい。
静蘭は彼女のことを知っていた。
幼い秀麗の為に琵琶を弾いていた姿を覚えていたから。
けれど、自分の叔母であるという事実を知ったのは、ごく最近のこと。
紅家にいる、もう一人の紫家の血を引く者。
自分の息子の嫁として、何の偏見もなく親身になってくれる彼女の存在が、静蘭には有難かった。
静蘭の顔をじっと見つめていた彼女は、不意にクスリと小さく笑った。
「絳攸がね、寝込んでる静蘭ちゃんのことが心配で心配で、とても仕事が手に付かないんですって」
「・・・・それは困りますね。絳攸殿には主上の為に身を粉にして働いてもらわなくては」
すぐさま眦を吊り上げてそう言えば、百合姫は微笑んで、幼子にそうするように静蘭の頭を撫でた。
「ふふふ、大丈夫そうで良かったわ」
彼女はそのまま静蘭の隣に腰を下ろすと静蘭の顔を覗き込む。
愛しむような慈愛の篭った眼差しに、けれど静蘭は居た堪れなさを感じて目を逸らし、じっと自分の手元を見つめた。
百合姫がその手の上に、そっと柔らかく手を重ねる。
「ねえ、静蘭ちゃん、困ったこととか悩んでいることかあったら遠慮なく私や絳攸に頼っていいのよ?・・・・まぁ、黎深はちょっとあれだけど。秀麗ちゃんや義兄様には敵わないかもしれないけれど、それでも私たちは、あなたの力になりたいの。」

だってもう、あなたは私たちの家族なのだから――――。

実際に語られずとも言葉の端々から胸に届くその言葉があまりにも温かくて。
だから、静蘭は俯いてただ自分の服の裾を強く握り締めることしかできなかった。
全ては自分の身勝手さが引き起こしたことだと知りながら、それでも思わず手を伸ばして縋りそうになる、この浅ましさが、憎い。
頑なに黙り込んでしまった静蘭に、しかし百合姫が言葉を促すことは無く、そして暫しの間静かな沈黙が落ちた。
それは決して重苦しいものではなく。
むしろ不思議とそのまま身を委ねていたいと思うくらい、心地良いものだった。
けれど、次いでボソリと百合姫が呟いた言葉に静蘭は目を点にした。
「それにしても、絳攸のお嫁さんだなんて、静蘭ちゃんが羨ましいわ」
そして「はーっ」といかにも疲れたような溜息を盛大に吐き出して、彼女はグッと拳を握った。
「絳攸は本当に良い子だと思うの。それはもう、黎深の息子には勿体に無いくらい!!男前だし、将来有望だし、ちょっと女の子に慣れてないけど、断っっっ然、私のヘンな夫よりいいわ!!私が10歳若ければ絶対に黎深なんかより絳攸を選んでたもの!!」
熱弁を振るい始めた百合姫に、静蘭は呆気に取られた。
・・・・確かに黎深を夫にするか、絳攸を夫にするか、と問われれば迷う者などいないだろう。
きっと後にも先にも、あの黎深の妻を務めることができるのは、百合姫しかいないと静蘭でも分かる。
――――けれど。
僅かな扉の隙間から紅色がちらつく気がするのは自分の気のせいなのだろうか。
ヘンな夫の件で扇が閉じられ、絳攸を選ぶと言ったあたりで何かが壊れるような鈍い音がしたのは、果たして静蘭の空耳だったのだろうか。
訳も無く静蘭の背中を冷たい汗が伝う。
まさかあの扉の向こうに、静蘭と絳攸の婚儀の為に紅州から戻ってきたあの人が・・・・!?
ちらっと扉に送られた視線で、彼女が確信犯であることを静蘭は悟った。
加えて、一連の被害を被ることになるだろう人物がこちらに向かっていることも。
そして。
「ぎゃっ!れ・・・・黎深様!?」
「ふん・・・・ちょうどいいところに来たな、絳攸」
予想通り、俄かに扉の向こう側が賑やかになり始める。
「む!黎深のやつ、また絳攸を苛めてるのね!?」
絳攸の悲鳴を聞きつけた百合姫が素早く扉に向かっていく。
彼女が扉を大きく開け放ったので、静蘭から外の様子がはっきりと見えるようになった。
扉に区切られた向こう側で、やがて黎深と百合姫の痴話喧嘩が始まり、その傍で右往左往する絳攸の3人の姿に、静蘭は眩しげに目を細めた。
もし、あの中に入ることができたなら。
いつかは自分の新しい道を見つけることができるのだろうか。
いつかは――――。
静蘭は無意識に腹部に手を当てていた。

静かに目を閉じれば、声はずっと遠くから聞こえているように思えた。


それから暫くの間は何事もなく時が過ぎた。
百合姫が静蘭の元を訪れ、何気ない世間話や、昔語りをしたり、静蘭に女性として必要な知識を教えたり。
絳攸が静蘭の元に顔を覗かせて、劉輝や秀麗のことを伝えては、静蘭から黒い笑顔で「主上やお嬢様の為に絳攸殿には是非頑張っていただきたいですね」と圧力を掛けられたり。
黎深が静蘭の室の前でうろうろしているのを家人が度々目撃したり。
それら日常の光景の中で、何一つ影を落とすようなことなど無い――――はずだった。

ゆっくりと、しかし確実に。
静蘭の中で芽生えてた暗闇は、やがて突如として姿を現す。


その日、絳攸は珍しく迷うことなく静蘭の部屋に辿り付く事ができた。
静蘭の部屋など、日課のように訪れているので、別段何が特別ということも無い。
けれど、今日の絳攸は少しばかり意気込んでいて、そのせいで少しだけ緊張している。
事の発端はこうだ。
それは少しばかり前に時間は遡る。
「まだまだ・・・・ね」
フッと小さな溜息と共に零された言葉に、絳攸は書物から顔を上げた。
今、この静まり返った室内には絳攸と百合姫の二人しかいないので、小さな呟きでさえ明確な音として拾えてしまうのだ。
「どうしたんですか、百合さん」
「静蘭ちゃんのことよ」
彼女は絳攸の目の前までやって来た。
「いい?絳攸、夫婦なのに未だに『殿』なんて敬称つきで呼ばれてるのは、心を許されていない証拠なの」
この先ずっと、そんな敬称付きなんて寂しいでしょう!?と、両手を取られて詰め寄られれば、思わずコクコクと頷くほか無い。
「一気に距離を縮めなさいとは言わないけれど、せめて静蘭ちゃんが今抱え込んでることとか、聞かせて貰えるくらいはならなければ駄目」
「は、はい」
「だからね、そうなる為には、少しくらい強引に押したって大丈夫なのよ」
「あ・・・・」
そこで漸く絳攸はハッとした。
百合姫が言わんとすることが分かったのだ。
静蘭は頑なに何も語ろうとしなかった。
突然こんなことになって、辛くないはずが無い。
悲しくないはずが無い。
だから絳攸は待つことにした。
彼女が自分から語れるようになるまで――――。
だが、百合姫は待つばかりではなく、絳攸が自分から聞き出すぐらいの強引さも時には必要なのだと言っているのである。
静蘭の為に。
絳攸はぐっと拳を握り締め、背筋を伸ばした。
そうすれば、百合姫はにっこりと微笑み、幼い頃絳攸を褒めた時にそうしたように頭を優しく撫でてくれた。
「じゃあ、絳攸、今日は静蘭ちゃんを泣かせてくることね!」
「はい!泣かせ・・・・・泣かせて・・・・?」
話を聞くだけじゃなくて、泣かせる?
俺が静蘭を?
あれ、と思って絳攸が顔を上げれば、百合姫のにっこりとした笑顔にぶつかった。
「そう、泣いてすっきりするくらい、感情を全部吐露させること!」
・・・・いつの間にか、ハードルが高くなっていた。

以上のような経緯により、絳攸は静蘭を泣かせる役目を負ったので、少しばかり意気込んでいるのである。
しかし、だ。
絳攸は殊、女性の扱いには慣れていなかった。
それは今まで彼女たちとの付き合いを徹底的に避けてきた事に起因する。
泣いている女性を慰めるならばともかく、その逆を行えと言うのだから、聳え立つ壁ときたら、語るまでも無い。
とはいえ、それが必要なことだとは理解しているし、何より相手が静蘭だから、絳攸はこうして意気込んでいる。
絳攸とて、決して同情だけで彼女を娶ったわけではない。
武官には不似合いなほど華奢な身体つきをしていた静蘭は、女になって女性特有の柔らかさが加えられ、更に美しくなった。
もともと淡い恋心を抱いていたこともあって、女性としての彼女に素直に魅力を感じたのだ。
弱っている隙を突いて物にしてしまった様で、少々躊躇いはあるものの、彼女を妻として迎え入れたことを心から嬉しいと感じている。
だから、力になりたかった。
絳攸は人払いをした後、ゆっくりと静蘭の室の扉に手を掛けた。
「あー、静蘭、入るぞ」
いつもなら入れもしない断りを入れて扉を開けた。
常と同じように静蘭の意思で光を遮った薄暗い部屋。
しかし、今日はいつもより空気がどんよりと濁っているようで絳攸は違和感に眉を顰めた。
「・・・・?」
この息苦しさすら感じる空気は一体。

――――刹那。

「静蘭!!?」
全ての感覚が全身から吹き飛んだ。

何がどのようになったのか。
唯、無我夢中だった。
あらゆる感覚が戻ってきた時には、絳攸の下には自らが押さえつけた静蘭に姿があった。
次いで薄暗い室内に、光が反射したと思ったら、何処か遠いところでキン・・・・と何かが落ちる鋭い音がした。
薄闇の中、静蘭の血の気の引いた顔がやけに白く際立っていた。
起きたのは僅か数秒も経たない、けれど、あまりにも恐ろしい出来事。
「どうして・・・・」
無意識に漏れた呟きは、絳攸自身にすら何てありきたりな言葉なのだろう、と感じられた。
もし、いつもの様に邸を彷徨っていたら。
もし、一秒でもこの扉を開くのが遅れていたら。
もし、もし――――。
恐ろしい仮定が、渦を巻くように目の前へと押し寄せてきた。
絳攸が扉を開けたその時に目にした光景は――――。

・・・・静蘭が刀を自分の腹へ振り下ろす瞬間だったのだ。

「絳攸・・・・殿・・・・」
どれくらいの時が流れたのだろうか。
静蘭は漸く正気を取り戻したかのように、か細い声で絳攸を呼んだ。
だが恐怖から未だ抜け出せない絳攸は、脳が麻痺したように反応を返すことができなかった。
女になったとはいえ、元武官の静蘭の動きに、常ならば絳攸が敵うはずも無い。
けれど、考えるより先に身体が勝手に動いて。
絳攸が悲鳴のように呼んだ静蘭の名に彼女が反応して。
だから一瞬、彼女の動きが止まり、絳攸はその手にある刀を弾くことができたのだ。
何か一つでも欠けていたら、きっと手遅れだった。
静蘭も、お腹の子も、諸共に。
「絳攸殿」
静蘭がもう一度自分の名を呼んだ。
その時、微かに彼女が痛みを耐えるような声を出したので、そこで初めて自分の指が食い込むほどに硬く、彼女の両腕を押さえつけていた事実に気が付いた。
絳攸が手の力を緩めれば、するりと白く細い腕は抜けて、そのまま絳攸の目許まで伸ばされた。
そして、目尻に溜まった涙をその手で拭われた時、絳攸は自分が泣いていたのだと漸く認識した。
静蘭は淡く微笑んだ。
「酷い顔をされていますね、絳攸殿」
「どうして・・・・!」
彼女を組み敷いているような格好に動揺するような余裕など、微塵も無い。
代わりに出てきた言葉は、やはりありきたりな言葉で、しかも責めるような響きを持っていたことに自分でも驚いた。
打ちのめされているのは、彼女が自らに刀を向けたことではない。
そこまで追い詰められていたことに気付くことができなかった、自分の不甲斐無さだ。
目を硬く瞑って、耐えるように俯けば、静蘭が優しいと形容できるような柔らかさで、絳攸の頬を撫でた。
絳攸の閉じた瞼の裏には、先ほどの光景がこびり付いて離れない。
「絳攸殿」
静蘭がか細い声で呼ぶ。
「・・・・怖いんです」
怖いのだと彼女は繰り返して、囁くように静かに語り始めた。

そう、静蘭は怖かった。
初めは何でもないことだと思っていた。
けれど、自分の腹に宿っているのが、確かに一つの命だと分かり始めるごとに。
静蘭はどんどん怖くなっていった。

私にこの命を愛せる?
――――私は母の愛を知らない。
この命を恨んでしまったりはしない?
――――未来を葬った忌々しいこの身が産み落とす命は、あの縹家の血を引く者。

いつだって思い出すのは母の怯えたような眼差しだった。
あの人の短い人生の中で、自分が知っている唯一つの表情。
伸ばした手が、彼女に届いたことは一度も無い。
届く前に諦めてしまった自分。
愛し合うことのできなかった母と子。
最後まで、母子たりえなかった過去。
そう、最後まで――――。
その、自分と母との過去は、そのままお腹の子と自分の未来の姿のように思えた。
子供が生まれれば、嫌でも自分はそこに縹家の面影を見ることだろう。
男のままでいれば得られたはずの未来と比較して、望んで得た物ではないと、絶望するかもしれない。
伸ばされた手を拒み、縹家の面影に怯えて。
お腹の子が成長するたびに、過去が・・・・未来が近づいてくるように思えて、どうしようもなく恐ろしくなった。
そうして気づいた時には、刀を握っていたのだ。
――――嗚呼、自分はいつからこんなにも弱くなってしまったのだろう。
「絳攸殿・・・・泣かないでください」
悪いのは全て自分で、自分さえ揺らがなければ、このようなことにはならなかった。
彼が自分の為に泣くようなことがあってはならない。
静蘭はただただ絳攸の頬を優しく撫でた。
この浅ましい自分の為に泣いてくれた、彼の為に。

そして時間は唯無闇にゆっくりと、浪費されていった。


結果として絳攸は静蘭を泣かせるどころか、逆に泣かされてしまうという失態に終わった。
その出来事を百合姫や黎深に伝えるべきか迷ったが、結局やめることにした。
伝えるまでも無く、二人には全て筒抜けだろうし、何より絳攸自身が静蘭の事をきちんと引き受けようと改めて決心したので、先ずは自分たちで解決しようという自負が先立ったのが主な原因だ。
ただ、絳攸は百合姫の部屋を訪ねた。
「どうしたの、絳攸?」
彼女は微笑んで絳攸を招き入れた。
「百合さん、お願いがあるんです」
何故そんなことを?と聞かれるかと思った。
揶揄われても仕方のないような、それ程までに拙い事しか絳攸には考え付かなかったから。
けれど、口にした願いを百合姫はただ淡く微笑んで了承してくれた。

――――暫くたって静蘭が絳攸から手渡されたのは、刺繍が施された、一枚の布だった。

「・・・・これは?」
問われて絳攸は顔から湯気が出そうなくらいに赤面した。
基本的に絳攸は手先が不器用だった。
無論、だからと言って勉学に支障がでるはずもなく、その優秀さは朝廷に知らぬ者などいない。
だが、料理や刺繍といったものには絶望的な程、才能が無かった。
対して静蘭は、勉学はもちろんのこと、教われば家事全般まで器用にこなす。
相手が悪かった。
早まったな、と思ったが時既に遅し、である。
「お、俺が縫った刺繍だ・・・・」
無意識に尻窄みになる言葉に、けれど静蘭は目を大きく見開いた。
お世辞にも上手いとは言えない刺繍だった。
所々糸がほつれているし、結び目も一目で見て分かるほどに甘い。
だが絳攸のあちこち手当てされた指を見れば、一生懸命縫ったのだと言われずとも良く分かる。
必死に、絳攸が伝えたいものが、そこには籠められていた。

子供と仲良く手を繋ぐ――――親子3人の姿。

・・・・本当に酷い刺繍だった。
お世辞にも上手いとは言えない刺繍だったのに。
何故なのだろう。
一目でそこに描かれているものが、静蘭には分かってしまった。
静蘭は無言でその布に顔を埋めた。
絳攸は慌てた。
「す、すまない!下手くそだよな!こんなのを貰っても嬉しくないよな!」
「・・・・いいえ」
静蘭は静かに否定した。
声が、震える。
「いいえ、違うんです」

――――この、差し伸べられる手を取ることが、許されるだろうか。

静蘭はずっと一人で向き合う気でいた。
子供とも、そして自分自身とも。
なのに、どうしてだろう。
拙い刺繍が語たる未来が。
傷だらけの指が差し示す道が。
酷く胸を刺す。
拙いものだからこそ、籠められた真摯な気持ちが分かってしまう。

「絳攸殿」
静蘭が顔を上げずに、震える声で絳攸を呼ぶ。
「愛せる自信がないんです」
絳攸は一瞬どう答えるべきか詰まったが、自分の気持ちをありのままに語った。
「俺が・・・・俺がその子をきちんと愛するから、一緒に愛する努力をすればいいんだ。静蘭がその子を愛せるように、俺も協力するから」
「酷いことを言って傷つけてしまうかもしれません」
「その時は、俺がその子を抱きしめてやる。それから静蘭も抱きしめてやればいい」
「・・・・抱きしめる・・・・」
「だって俺と静蘭で抱きしめる腕は4本もある。足りなければ、秀麗や邵可さん、百合さん、・・・・もしかしたら黎深様だって貸してくれるかもしれない。主上だっている。これだけたくさんの腕に抱きしめられればきっと、悲しいことなんて直ぐに忘れる。大丈夫だ!」
思わず捲くし立てるように言って、漸く我に返った。
今更ながらに恥ずかしくなってくる。
絳攸は慌てた。
「ああ、何だか上手く言えないな。ええと、だから・・・・」
絳攸は必死に伝えようとした。
勉学に優れた才を持つ彼だが、それゆえに感情面での事を述べるのは不得手なのだ。
だが、それでも言葉を捜す。
伝えたいのは唯一つ。

静蘭は一人ではないと言うこと。
辛くても、悲しくても、苦しくても、必ず、皆が助けてくれるから。
一人で抱え込まないで欲しい――――。

「いいえ、十分です・・・・」
嗚咽を抑えて静蘭は唯頷いた。
「十分です・・・・」

――――嗚呼、母上。
あなたは寂しい人だった。
悲しい人だった。
差し伸べられる手も無く、誰にも顧みられず。
唯一人。
最後まで唯一人。
けれど、自分には差し伸べられた、たくさんの手がある。
その手を取らないことは、きっとより罪深いことなのだ。
静蘭は一人ではない。
それならば、過去は繰り返されないだろう。
何処か遠くで子供の明るい笑い声が、確かに聞こえた気がした。
太陽のような男。
優しい少女。
愛しい弟。
それはきっと、彼らと紡ぐはずだった未来と同じぐらい、尊いものになるかもしれない。
今はまだ、その第一歩を踏み出したばかり。
光に照らされた一筋の道が、その時初めて見えた気がした。
「ありがとうございます――――絳攸」

それは紅家邸にやってから、絳攸が初めて見た、静蘭の微笑だった。
花が綻ぶような、透明な微笑み。

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日溜りの匂いに百合姫はふと顔を上げた。
庭院を眺めれば、絳攸と静蘭が二人並んでゆっくりと歩みを進める姿が見える。
静蘭のお腹は大分大きくなった。
これから生まれる一人分の命を抱えた身体を、傍らの絳攸が労わるように両腕で支えて二人はまどろむ様にゆったりとした時間を過ごしている。
室内を見渡せば至る所に、子供用の玩具や小物が置かれていた。
少し前までは、ただ静蘭だけがいた室。
静蘭と絳攸が二人で必要だと思う物を少しずつ集め、時には秀麗や百合姫が持ち込んで色んな物が増えていった。
ふと気が付けば、百合姫の横で黎深がいかにも興味など無いといった風情で扇子をパタパタと仰いでいた。
その視線の先には、大事そうに飾られた一枚の布がある。
百合姫はふわりと目を細めた。

そこに描かれた風景を目にするのは、きっともう、そう遠くない未来だろう。



かあか様の女体化企画に参加させていただきました!
相変わらず拙い文で恥ずかしい・・・・。

夢鳥



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