「Cafe Trame den eine Nacht」 その店を目指して、藍楸瑛は煌びやかな夜の街中を急いでいた。 大きな薔薇の花束を抱えて急ぐその姿は、彼が長身なことも相まって一際目を惹いている。しかし本人は一向に気づく由もなく、ひたすら長い足を交差させていた。 クリスマスを一緒に過ごそうと夢見て、年末に贈った衣装は“彼女”のお気に召さなかったようだった。 即刻返されてきた。 その衣装は聖夜に相応しいようにと、ミルキーホワイトとシュガーピンクを基調にした可憐なドレスだった。 柔らかい透けるほどの生地を重ねたフリルの襟元と袖口、繋ぎの部分は淡いピンクの糸で刺繍を施してある。大きく開けた胸元のフリルを繊細なレースが被い、ハイウエストで帯状のリボンを締めて幅広のベルトで止める。 膝上までのチュチュの上からは、細長い花びらのように切られた羽のように軽いシフォン生地が、ふんわりと何枚も流れている。白いレースのニーソックスに、太目のヒールの高さは9センチ。先の丸いエナメルのパンプスで、足首はピンクのベルトが交差している。 首には幾重にも細い紐を巻き、シルバーとピンクを組み合わせた、スワロフスキークリスタルのペンダントが胸元を飾る。 いわゆる甘ロリ系の、それは愛らしい天使をイメージした装いだった。 髪は右側を盛り上げて小さな羽毛を散らし、飾りには白とピンクの八重のゼラニウムを選んだ。ゼラニウムの花言葉は「君ありて幸福」。今の楸瑛の想いをこめたものだ。 色素の薄い“彼女”にどれほど似合うだろう…… うっとりと考えると、この世とおさらばしそうになるほどの幸福感に満たされた。 なのに…… なのに、それは事も無げに返品されてしまった。 しわ一つないそれは手に取ってももらえなかった事を、「却下」の烙印を押された事を、無言の内に楸瑛に知らしめた。 返されたドレスの箱を前に、楸瑛は一晩中泣き崩れた。 もちろん、残り香もなかった。 聖夜の夜を“彼女”と過ごすことが叶わなかった楸瑛は、結局そのまま藍家主催のクリスマスパーティーに出席した。 周囲にしたくもない愛想を振りまき、にこやかな笑顔を大盤振る舞いしては出席者から絶賛されていたのだった。 なんと虚しいことだろう。 本命を落とせずに、どうでもいい相手に言い寄られる。不本意極まりない思いをしている楸瑛に、兄たちから浴びせられた視線は当然のように冷たかった。 虚しかった「聖夜」を思い出して、楸瑛は深いため息をついた。 気難しい“彼女”は、何がお気に召すのか。これでも毎回頭を悩ませているのだ。 「Cafe Trame den eine Nacht」は、普通のメイドカフェではない。 巷では、「メイド」と呼ばれる“彼女”達が、客に対して「ご主人様」などと呼び、上げ膳据え膳のおもてなしをする。無理難題でなければ、大抵のことは叶えてくれるという。 日常では経験できない「ご主人様」として大事にされる、そんなメイドカフェが流行っているらしい。 よく分からない。 藍家の子息として育った楸瑛には、「ご主人様」として傅かれるのは日常なのだ。 日常そのままのメイドカフェなど興味もないし、相手に対して媚をうる手合いは嫌と言うほど経験済みだ。仕事としてのサービスならともかく、必要以上の過剰なサービスは遠慮したい。 それでなくとも楸瑛の容姿と藍家の子息の肩書きから、よってくる女性には事欠かないのだから。 女性に対して食傷気味になっていた楸瑛に、知人が紹介してくれたのがこの店だった。 この「Cafe Trame den eine Nacht」は会員制のCLUBみたいなもので、会員の紹介がないと入れない規則になっていた。 ここのメイドは「お嬢様」と呼ばれ、客をもてなすことはしない。メイドカフェとは逆に、客が「お嬢様」に傅くのだ。それは楸瑛にとって、今までの日常と常識を覆される大椿事だった。 まず紹介状と自己アピール文と写真、そしてどのような「お嬢様」を求めるのか。 それから条件に合う「お嬢様」が選ばれ対面となるのだが、その対面にしてもランクがある。 室内の装飾から「お嬢様」の衣装、小物に至るまで、全てが客持ちである。もちろん会っている間のチャージ料や飲食物も客持ちとなる。 その為、客の予算によっては希望の「お嬢様」とは出会えないのだ。 楸瑛はそのシステムを聞いて俄然興味を持った。 自分が跪いてもいいと思うほどの女性が、この店にいるというのなら面白い。今までの経験と境遇からか、楸瑛の理想はかなり高い。そこまでは期待をしないが、自分が作り上げた「お嬢様」と付き合ってみるのも一興だろう。 ― 自分を断る女性などいない ― そう高をくくっていた楸瑛の鼻っ柱は、あっけなくへし折られた。 楸瑛が出した条件は、「女王のように気高い貴婦人」というものだった。 だがそれは、ただの我儘娘でも、高慢な女性でもなく、その名の通り誇り高く美しい貴婦人。そんな女性がいるのならば、ままごとのように膝を折ってもいいと思ったのだ。 それなのに対面を果たす前に、送った衣装一式で足蹴にされてしまったのだ。 対面を果たすまでは写真すらも見せてはもらえないので、客は自分の出した条件のイメージで衣装を選ばなければならない。その贈られた衣装で「お嬢様」たちは、客がどの程度のレベルで、自分に対してどんなイメージを持っているのかを判断する。 楸瑛が選んだのは、正式なディナーにも着ていかれる当たり障りのない黒のドレスだった。生地はもちろん最上級のシルクである。それなのに…… 「他へ行け!! 」 一言で突返された。 それこそ貴婦人にあるまじき罵詈雑言の嵐が飛んだらしい。戻ってきたドレスを見て、楸瑛は呆然としてしまった。自分が断られるなどとは思ってもみなかったのだ。写真もついていたのに…… おかげで楸瑛は、俄然ヤル気を出してしまった。 「他へ行け」という一文に、ありふれた物ではいけないないと悟った。それでは「お嬢様」は自分の目の前に立ってはくれないのだ。 楸瑛は思う存分、己の好みを反映させたドレスを作らせることにしたのだった。 あえて自分の容姿が「お嬢様」の好みに合わないかもしれない、という可能性には触れないことにした。 深い藍色の光沢が美しい最上級のシルクで、デザインはごくごくシンプルにした。 襟ぐりは丸く取り、首には同じ生地でリボンを結ぶ。袖は腕にぴったりとしていて、手首のところはストレッチで余裕を持たせ、指の付け根までの長めにしてある。ウェストはベルトの位置で切り替えして、スカートの部分は生地をたっぷりと使い、翻るとドレープが美しい仕上がりになっている。 編み目模様のタイツはチャコールグレー。それを衣装よりも濃い藍色の、先が浅く葉が二枚重なったような柄の、柔らかい革のパンプスが被っている。 そして髪飾りは、見事な牡丹の花である。 恐ろしく着る人物を選んでしまうだろうデザインだが、楸瑛はそれでも構わなかった。 自分を一蹴した「お嬢様」に興味はあったが、好みかどうかは別だからだ。「お嬢様」が衣装を気に入っても似合わないかもしれないし、似合っても楸瑛の好みではないかもしれない。それも一興とする者が「客」となるのだろう。 そして、現れた「お嬢様」は…… その初対面の時の衝撃を、楸瑛は今でも忘れない。 こつん、と僅かに響いた靴音に振り向いた。その楸瑛の目の前に、藍色のドレスに身を包んで現れたのは、正に気高く美しい氷の貴婦人だった。 白い肌にきりっとした口元、意思の強そうな輝く翡翠の瞳。牡丹の花が唯一のアクセントの様に、淡い色の髪を飾っていた。 着る者によっては地味に見えてしまう衣装が、見事に“彼女”の引き立て役になっていた。ぴったりとした袖は腕の細さを強調し、長めの袖の裾から見える指先は、綺麗なラウンド型に整えられて桜色の光沢を放っている。 楸瑛は言葉も忘れて、ただただ目の前の「お嬢様」に見入っていた。 「なんだ? 私に会いに来たんじゃないのか」 どのくらい時間がたったのか。不意に声をかけられて、楸瑛は不覚にもうろたえてしまった。 「人違いなら時間の無駄だったな」 艶やかな桜桃の唇からは不似合いな言葉遣いで言い捨てる。体重を感じさせない動きで立ち上がると、さっさと奥へと引き上げようとする。その身ごなしも優雅で、見惚れてしまう程だった。 「ま、待って下さい」 思わず楸瑛は「お嬢様」に縋ってしまった。 「お嬢様」の名は“清苑”。 なんとこの人にぴったりな美しい名だろう。 縋ったときの匂いまでが芳しかった。この衣装は下げられたそのままに、一式衣装箱に大切に保管されている。もちろん、他の衣装も同様に保管されている。 写真は禁じられているので手元にはない。カメラはもちろん、携帯も持ち込むのは許されないので、身体検査は入室前に徹底的にされる。目にできない分、妄想を逞しくして通って貰おうとの意図なのだろう。 万が一盗撮用の小型カメラでも隠し持っているのが発見されれば、直ちに強制退会させられる。それだけでなく、社会的信用もなくすことになる。噂というのは恐ろしいのだ。 それらは入会手続きの際に確認されている条項だ。軽はずみなことはできない。 なので楸瑛にとっては、返品であっても大切な“清苑様”との想い出なのだ。小物一つとっても、無造作に放置できるものではない。 彼女がこの店でbPの人気を誇るのも頷ける。 気高く美しい分、気難しいが、趣味もよく矜持も高い。 そのため予約の衣装を送った時点で、返品されることも多いらしい。衣装を受け取って貰えたことが、予約を取り付けたことになるのだ。 必然的に自分のセンスも磨かなくては、「お嬢様」に会えない。何しろ“清苑様”は、高価な衣装にも宝飾品にもブランド物にも興味を持たないのだ。 どれだけ“清苑様”に会いたいのかという、客の態度というか熱心さ、この一点で判断するようだ。 もちろん、“清苑様”自身の満足度がトップにくるのだが…… 楸瑛は今までとは打って変わって、女性に対して必死になっている自分を不思議に思う。 だが、「清苑様」 そう口ずさむ楸瑛の顔は、無上の幸せにほころんでいる。 例え会えたとしても、“清苑様”が不機嫌だったり、気分がのらない様子だったことも、一度や二度ではない。 にっこりと美しく微笑ながら細いヒールで踏まれた時など、痛いはずが嬉しくて面映くなった。もっと踏まれたいと願ったほどだ。 罵倒された時など、怒りに熾える瞳のなんと美しかったことだろう。その瞳が映しているのは藍楸瑛だけなのだ。そう思うと“清苑様”の罵詈雑言も耳に心地よく、その声音がずっと続いて欲しいと思った。 自分は一体どうしてしまったのだろう。おかしな性癖等はなかったはずなのに…… あれこれと他愛もないことを思いながら、楸瑛は「Cafe Trame den eine Nacht」までの道を急いでいた。 聖夜に送ったドレスを返品された時は蒼白になった。すぐさま藍家の力を総動員して、大急ぎで別のドレスを作らせて送ったのだ。せっかくの聖夜を他の客に取られたくないではないか!! しかし、聖夜の「Cafe Trame den eine Nacht」は、一年を通しても大激戦日らしい。 男として考えることはみな同じ。 聖なる夜に、理想の「お嬢様」と一緒に過ごしたいのだ。別に何とも思っていない相手と過ごす苦痛を考えると、百億倍も幸せなことに違いない。 だが楸瑛は、結局この聖なる日を愛しの“清苑様”と過ごすことは叶わなかったのだが…… 一体何処の誰がこの藍楸瑛を差し置いて、“清苑様”と聖夜を過ごしたのだろう。思い出すといまだに悶々と懊悩するのだ、一体何故? と。 今更悩んだところで仕方がない。楸瑛は頭を振って、目の前の幸せに集中することにした。 今日は「St.Valentine's Day」だ。 この日は「お嬢様」と客が、恋人同士のように過ごすことも可能な日となっていた。その為にクリスマスに次いでの激戦日なのだ。 その「お嬢様と恋人になれる(かもしれない)日」を見事に獲得した時は、喜びのあまり今までの人生が走馬灯のように頭をよぎってしまった。楸瑛は心が昇天しそうになりながらも、「Cafe Trame den eine Nacht」へと向かっていたのだった。 “清苑様”の部屋に案内された楸瑛は、初めての初恋にどきどきする少年の様な気持ちで「お嬢様」が現れるのを待っていた。 簡素なほどにすっきりと整えられた室内には、凝った彫金の燭台に蝋燭が灯されていた。電気は切られているので、蝋燭の灯りが室内を照らしているのみだった。 使い込まれたアンティークのテーブルの上には、茶色のボックスにピンクのリボンでラッピングされた箱が置かれていた。それは白くコーティングされた、今回の「St.Valentine's Day」で評判の生ショコラ。傍らには、生ショコラに合わせたロゼ・シャンパーニュがセッティグされていた。 それらを演出しているのは、蝋燭の柔らかな灯りが醸しだす陰影だけ。 その橙色の灯りを見るともなく見ていると、静かな靴音が響いて「お嬢様」が入ってきた。楸瑛がそちらに目をやると、この日の為に送った未亡人姿の“清苑様”が佇んでいた。 しかし、なぜ「St.Valentine's Day」に未亡人姿なのか。愛の殉教者であった St.Valentine に因んだのか、それとも楸瑛のイメージする貴婦人がそうなのか、他の者が見れば首を傾げたくなるに違いない。 だが、その未亡人姿の清苑は確かに美しかった。 呼吸をするのも忘れるほど、楸瑛は“清苑様”に見惚れていた。 繊細なレースが縁取られた襟元から、極上のベルベットのチュニックが続いている。袖は三分丈のフレンチで、その先は漆黒のシルクサテンの変形袖がひらひらと広がっている。少し腕を上げると、極々薄くて軽いレースのアームウォーマーが覗いていた。手の甲を覆う部分には、今にも飛び立ちそうな蝶の刺繍が施されている。 ウェストの部分はコルセットのようになっていて細い紐で締められ、シルクサテンのスカートが綺麗なラインを描いている。スカートの裾はレースフリルとチュールで縁取られ、そこにはローマングラスが縫いとめられている。古代に焼かれた硝子のあまい輝きが、陰鬱な未亡人のイメージを払拭していた。清苑が気に入ったのは、この一点かもしれない。 その上にふんわりとシフォンのフリルが重なる。センターのごく薄いピンクがアクセントになっている花柄の黒のストッキングに、エナメルのリボンパンプスが可愛らしい。 サテンのリボンで髪を纏め、そのまま長くたらして首に巻いている。淡い色の髪に漆黒のリボンが映える。伏せた睫毛が長く影を落とす目元には、極小の南洋真珠が柔らかく光る。真珠の輝きも、清苑の硬質な美しさの彩りにしかならない。 かさり、と窓からの風が花束を揺らした。 その音でようやく思い出したかのように楸瑛は動いた。手に抱えていた薔薇の花束から、ぎこちなく一本を抜き取った。 ローズピンクのマリア・カラス。 オペラ歌手として名声を馳せた彼女も、目の前の清苑も、演じているという点では同じかもしれない。そう思った楸瑛はこの薔薇を選んだのだ。 客である楸瑛の為に「お嬢様」を演じてくれている清苑の髪に、棘を取り覗き茎を折ったマリア・カラスを飾る。 中央部の丸剣弁がきゅっと盛り上がり、裾が広がるように半剣弁の花びらが開いている。凛と咲いているその薔薇は、清苑の柔らかい髪に映え、よりいっそう気高い雰囲気を醸しだした。 残りの花束はテーブルに置き、楸瑛はそのまま跪いて清苑の手を取る。 「今宵、この楸瑛のお相手をお願いできますでしょうか? 清苑様」 切なそうに見上げる楸瑛をしばらく見つめて、ふっと口元に笑みを浮かべると清苑は頷いて承諾する。 その僅かな笑みに、たちまち楸瑛の表情が明るくなる。幸せな色合いを浮べたまま、清苑をエスコートしてバルコニーへと誘う。 今宵は恋人たちの夜には似合いの綺麗な月夜だ。 その月明かりの下に佇む清苑の、何と美しいことだろう。 今日が終わるまでの僅かな時間が、楸瑛に与えられた至福の時だった。 「どうされたのですか? 清苑様。 大人しく私と踊ってくださるなんて。いえ私は嬉しいですけれど……」 ショパンのワルツの美しい旋律に合わせて、二人はステップを刻む。楸瑛のエスコートがありながらも、重さを感じさせない清苑の踊りに改めて感嘆する。 「別に、綺麗な曲だからな」 そっけなく呟きながらも、黙ってその調べに耳を傾ける。 ショパンのワルツ第13番変ニ長調 作品70−3 この3分弱の短い曲は、作家の死後に発見されたという。 初恋の君を想いながら書かれたといわれるこの曲は、楸瑛の想いをものせているように流れていく。 例え一時のまやかしの間柄であろうとも、楸瑛が清苑を恋焦がれる気持ちに偽りはない。 本当は、この店以外でも会いたい。 「お嬢様」と「客」としてではなく。 この日に相応しい「恋人」たちとして。 そんな幻のような想いを美しい調べにのせて、つかのま二人は月夜に漂っていた。 「Cafe Trame den eine Nacht」 この会員制お嬢様カフェは、その名の通り客に一夜の夢を与えてくれる。 <fine>
pepe様から3周年記念のお祝いに頂いてしまいました。
有難うございます!!
うへへ、お嬢様静蘭かわいいなぁ〜!!
下僕楸瑛が似合いすぎて最高です。
でも楸瑛の幸せそうな様子を思い浮かべると、なんか頬っぺたをつねりたくなるような・・・・?(笑)
夢鳥
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